作られた時代はバラバラ?万里の長城

万里の長城と言えば秦の始皇帝が作ったものとして有名ですよね。しかし、万里の長城は始皇帝が作る以前からあったのをご存知ですか?今回は万里の長城の豆知識をご紹介します。

始皇帝以前の長城とは?

現在歴史の教科書で習う万里の長城は秦の始皇帝が北からの侵入を防ぐために大勢の人を集めて作ったと習うかもしれません。しかし、この万里の長城には大本がありました。始皇帝による統一以前には7つの国が争う戦国時代があり、各国は警戒の必要な国境にそれぞれ長城を築いていたのです。

始皇帝が統一したのちに国内の長城は破棄されますが、そのうちの燕・趙・秦の北方の長城を一つにつなげ大きな長城を作ったのです。これが万里の長城の始まりです。ちなみに現在は立派な石垣づくりですが、当時は馬や人が越えられなければよいということで土壁づくりの幅3~5m、高さは2m程度のものでした。

使ったり使われなかったり

その後、秦が滅び漢により統一されるとその後の領土の拡大、主にシルクロードを防衛するために長城もさらに拡張されます。しかし後漢時代になると長城は放棄され、三国志で有名な三国時代の頃には長城の防衛は行われてはいませんでした。それからしばらくして、北方の異民族であった北魏によって統一されると、さらに北からのを侵入を警戒する様になり、漢の時代の長城よりも南に長城を築きます。

この長城は隋の時代まで維持されますが、唐の時代には放棄されその後しばらく長城は歴史から姿を消します。長城が歴史に再び出てくるのは北方の異民族の金という王朝によってです。金は北魏同様に北からの侵入に備えるために長城を築きます。しかし、この長城はすぐに元によって突破されてしまい、征服されると再び放棄されました。

現在のものは明時代のもの

このように万里の長城は再建されては放棄されて、を繰り返していきます。明が元を北方に追い出すことに成功すると、しばらくの間は現在の南京を首都に据えていましたが、3代皇帝、永楽帝が現在の北京に首都を移転したため北方に対する備えをする必要に迫られました。

この際に長城建設が行われ、現在の形になります。明はその後も万里の長城を交易の場や北方の威嚇のために有効に利用し、その後の清との戦いにも東の山海関という場所で激しい戦いが行われるなど長城としての役目を果たしました。

ほんとに大きい万里の長城

万里の長城は全長8851.8kmになり秦代、漢代まで含めるとその長さは21196.18kmになります。西は現在のゴビ砂漠から東は海に至るほどに大きな建造物で、歴史的文化財として世界遺産にも登録されました。

しかし、長城の一部では住民が長城の城壁を建築資材として盗む、骨とう品として売る、ダム工事によって一部が沈む、道路建設で分断されるなどの破壊が進んでいる場所があります。保存状況がよくない場所もあり、秦や漢時代の長城については土で作られているために風化が進んでいます。普段我々が観光などで見ることのできる美しい長城の姿は万里の長城のほんの一部なのです。

万里の長城のちょっとした豆知識でしたがいかがでしたでしょうか?普段我々が学んできたことや見ていること以外にもまだまだ知らないことはたくさんあります。他の世界遺産などを観光で訪れる際には訪れる前にちょっとした知識を知っておくだけでも、より楽しく観光ができるでしょう。

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